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国際会議の”スーパー通訳“
通訳は通訳でも国家間の政治的な会議に関わる通訳というのは、深い知識と高い技術が要求される。近頃、新潮社から「歴史を変えた誤訳」という本が発売されて話題になっているが、確かに国際会議などでの通訳は、微妙なニュアンスひとつの違いが国家関係を悪化させてしまう可能性もある。ミスは許されない。その上、迷っている暇などない同時通訳だ―青木麗子さんは福岡におけるその、まさに国際会議などで活躍する通訳である。江沢民、朱鎔基、胡錦涛など名だたる超一級の中国要人の後ろに控え、歴史のコマを進める重要な黒子となってきた。
27歳の話に入る前に少しだけうかがった、国際会議通訳の裏話がある。「やはり政治家も人間ですから、言葉を間違うこともあるんですよ。例えば地域名を間違えたり」。さて、私たちが通訳だったら、どう訳すか。プロの答えは、「ミスに気が付くのも通訳の仕事のうち。小さな声でさっと確認します」。国際会議などの通訳は、実に多くのより深い知識が求められる。
「もうすぐ30歳。私、このまま?」
27歳の頃は、福岡県庁の中にいた。国際交流課の中国担当職員。振り返ると、「27歳の頃はとても悩んでいました」。青木さんには子供の頃からの夢があった。中学1年生まで住んでいた中国。「中国と日本の掛け橋になりたい」。その思いの先に、通訳という職業が描かれた。
夢の実現への第一歩として通い始めた、国際交流課。しかし当時はまだ日中の交流が活発ではない時代。「通訳の仕事は月に2〜3回の表敬訪問の時ぐらいで、あとは事務処理やお茶汲みばかり。もっと場数をこなしたいのに、このままで私は終わっちゃうのかしらという焦りがありました」。
元気をくれた、未来計画
その苦しみを乗り越えさせてくれたのは、もう少し長いスパンで将来を見据えた未来計画だった。「30代が終わるまでに、翻訳者としての基礎を固めよう。40代には本を書き、会社を作る」。
方針は固まった。「それなら悩んでないで、公務員で余裕のあるうちに子供を産んでおこう」。無理なくゆっくり通訳の経験を積める上に、産休も保障された公務員。頭を切り替えれば、恵まれていると感じられた。
その後、夫のアメリカ在外研修に同行するため県庁を退職。実は1年間の休職を願い出たのだが、行政職にはそういう制度がないということで断られたのだった。これでまた振り出しかという思いもあった。しかし「今からがまさに通訳として自分自身の力が試される時。日中両国のことに留まらず世界を知らなきゃ」と一念発起で子育てをしながらアメリカの大学で語学や世界の動きを学んだ。
訪れた、開花の時期
1年後に帰国。驚くことに、わずか1年の間に日中交流はとても活発になっていた。1992年に福岡県と中国の江蘇省が有好県省提携。友好交流から技術交流へと関係は日増しに発展。通訳としての力量がぐいぐい試される日々。アメリカで学んだ知識とこれまでの経験が合わさり、長い冬を終えつぼみが一気に花開くような感覚を味わった。31歳、ようやく、自分の立ち位置をしっかり見つけた。現在、40代になった青木さんは、描いた夢通りに会社を作り、本も出版した。
27歳の女性たちにメッセージをお願いすると、「悩みながらでも、走ることをやめないでほしい」という答えが返ってきた。「立ち止まらずに進み続けてさえいれば、いつの間にか状況が変わっていたり、自分自身が変わっていたりするから」。悩みながらも常に進み続けた青木さんの言葉だからこそ、胸に深く届く。
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